――何でこんなことになったんだっけ?
ロイド・キャベルは状況を飲み込めず、放心していた。
手元のカップから湯気が立ち昇り、カモミールとジンジャーの香りが鼻をかすめる。湯気の先では黄色と黒色のツートーンカラーが忙しなくちょこまか動き回っている。ツートーンカラーの持ち主は、かつてロイドの同級生だったフィン・エイムズ。
ロイドはフィンの家でダイニングチェアに座っていた。
ダイニングから続き間になっているキッチンでは、フィンが耳に心地よい音色を口ずさみながら卵をといている。
「お腹空いてるのに待たせてごめん…もうちょっと待ってて」
「あ…うん…」
ロイドは呆けた返事をしながら、自分が空腹だったことを、そしてどうしてこんな状況になったのかを次第に思い出していた。
◇◆◇
思えばその日、ロイドは朝からツイていなかった。
ロイドは名門イーストン魔法学校の卒業生であり、魔法界の最高法定機関である魔法局に勤めるエリートだ。そんな彼の朝は規則正しく効率的で、モーニグルーティーンをこなすことにより、仕事に向けて心身のコンディションを整えてから出勤するのが常であった。
しかし、今朝はいつも起床する時間より1時間以上も前に、ドゴオオオオオンッという轟音と地響きによって叩き起こされた。慌ててバスローブを羽織り、窓へ駆け寄って外を見ると、200メートルほど離れたあたりに1匹のドラゴンが降り立っていた。
ドラゴンはあたりを見回しながら、尻尾を振ってドシンドシンとゆっくり歩き出す。暴れている様子ではないが、その巨体で無遠慮に歩かれれば、当然周囲の建物は壊れる。悪い夢でも見ているのだろうかと固まっていると、伝言ウサギの着信音が鳴る。魔法局の先輩から呼び出しだった。
曰く。迷子のドラゴンが街を破壊しながらお散歩している。すぐに魔法警備隊とアギトさんが現場に向かう。お前の家が一番近いから、みんなが到着するまで固有魔法で足止めしておけ。とのことだった。
「一人で⁉僕を殺す気ですか⁉」「無茶苦茶なこと言わないでください‼」そんな文句も言わせてもらえないまま通信は途切れて、地響きがだんだん近づいてくる。
見なかったことにしたかった。聞かなかったことにしたかった。絶対行きたくなかった。しかしこのまま家にいても、ドラゴンの方からこちらに向かっているのであれば、結局やるべきことは変わらないだろう。そう腹を括り、ロイドは渋面で杖を手に取って着の身着のまま外へ駆け出した。
現場に着き、物陰に身を潜め、まずはドラゴンの口を魔法の糸で縫って塞ぐ。そして前後の足を、翼を、尻尾を順に地面に縫い付ける。中型で、比較的気性の穏やかな種ではあったが、抵抗するドラゴンを縫い付けておくのは正直荷が重い。歯を食いしばり、魔力を振り絞って、繊細に糸を繰り、何重にも重ね縫いしていく。すると、家を飛び出す息子を見たからか、或いは魔法局から呼び出しが掛かったからか、ロイドの父親が使用人を伴って駆けつけた。
数人掛かりで何とか抑え込んでいたところに、やっと魔法警備隊が駆けつけ、ドラゴンの拘束や沈静にあたる者、市民の救出や避難誘導にあたる者に分かれる。神覚者アギト・タイロンが駆けつけてからは早かった。彼の固有魔法でドラゴンを手懐け、ロイド達の苦労は何だったのかというくらい、いとも簡単に解決。損壊した建物の修復や、怪我人の治療、それぞれに適した魔法を使える局員を呼ぶように指示を出し、その場は取り敢えず収まった。
ロイドは一度帰宅して、出勤する為に身支度を始める。まず、シャワーを浴びて土埃と汗を流し、化粧水と乳液で肌を整える。次いで、爪が伸びていないことを確認し、ロイヤルブロンドの髪をセットしてから足首に軽く香水をつける。最後に、剃り残したヒゲが無いか確認しようと鏡を覗くと、疲れて澱んだサファイアブルーの瞳がこちらを見ていた。
自室に戻ってクローゼットを開けると、真新しい高級素材の仕事着一式が掛けられており、両親からの誕生日プレゼントだろうと踏んで微かに頬を緩める。
そう、寝起きからとんでもない災難に見舞われたが、今日はロイドの誕生日だった。
おろしたてのシャツ、ネクタイ、スラックスに身を包み、ロイドがぐったりしながら朝食を胃袋に詰め込み終えると、使用人が食後のコーヒーを運んで来る。漂うコーヒーの香りに癒されるのも束の間、使用人が手を滑らせてコーヒーカップを取り落とした。
脊髄反射で飛び退くが手遅れで、ロイドの左手と左腿に黒いシミが広がり、次第にヒリヒリとした痛みを感じる。ロイドの父親が件の使用人を叱責しながら痛めつけて家から叩き出し、母親が別の使用人に指示を出してロイドの応急手当をさせる。ロイドはあまりにも疲れすぎて怒る気力すら無く、薬を塗られ、ガーゼの上から包帯を巻かれ、用意された替えの服に着替えながら、まだ出勤すらしていないのに、帰ってベッドで寝たい…という気持ちになっていた。
しかしロイドはもう立派な社会人だ。栄えある魔法局員として高い給料を受け取っている以上、それ相応の働きをしなければならない。休みたい気持ちを押し殺して出勤したものの、魔法局での仕事中も災難は続いた。
3つ下の新人局員がミスをして、魔法動物管理局で飼育・管理していたサンダーバードが逃げ出したという。自由自在に飛び回るサンダーバードを出来るだけ傷つけずに捕獲する為に、ロイドに白羽の矢が立った。
ロイドの固有魔法は状況や相手に応じて、拘束、攻撃、拷問、傷口の縫合、様々な使い方が出来る。それぞれの能力に特化した魔法使いに比べると決定打に欠けるが、代わりに汎用性が高いので、ちょっとした有事の際は、初期対応に駆り出されることが多かった。
今回も、拘束魔法の使い手を向かわせるから、遠くに逃げないようにしておけと送り出される。ロイドは右手に杖を持ち、火傷で傷む左手で首筋をグッと押さえながら駆け出す。足を踏み出す度、包帯越しに左腿の火傷とスラックスが擦れて、ズキズキと痛かった。
サンダーバードは、魔法局からほど近い広場にある小さな噴水で水を飲み、小休止を取っていた。まずはサポート役として同伴した先輩が懐から杖を抜き、彼の固有魔法でサンダーバードを小さくする。移動中に先輩と打ち合わせた通り、ロイドはすかさず広場周辺の建物の壁と壁に、そして屋根と屋根に魔法の糸を張っていき、目の細かい網状にする。こうすることで、サンダーバードはそれなりに広い空間を飛び回れるので怒って暴れることもなく、且つ人間は限定された範囲内でサンダーバードの捕獲に注力できる。流石だな!と快活に笑う先輩に背中をポンと叩かれ、馴れ馴れしいとは思ったが、自分の働きを目上に認められ、そう悪い気はしなかった。
お昼休み、局員食堂でもロイドはツイていなかった。
午前中はずっとロクな目に遭わなかったので、一流シェフの料理をささやかな楽しみにしていたのに、ロイドの目の前でフォアグラソテーの肉包み焼き定食が売り切れてしまった。
――何で誕生日なのにこんな目にばかり遭うんだ!…いや、誕生日じゃなくてもゴメンだけど…何でよりによって今日なんだよ…‼
せめて昼食後に医務室で火傷を治してもらおうと考えるが、今日に限って食堂が混雑していたせいで、昼食を食べ終えた頃にはお昼休みが終わってしまい、午後の仕事も目が回る程忙しく、結局、勤務中は医務室に行く暇もなかった。
そして、いつもであれば終業時間後に医務室に行けたのだが、今日が年の瀬の金曜日なせいで、18時から忘年会が予定されている。終業の鐘を合図に、同僚達が会場へ移動し始めたので、ロイドも仕方なく彼らと共に魔法局を後にした。
夜のマーチェット通り、路地裏に位置するその店では、壁際の間接照明と天井のペンダントライトが淡く光り、良く言えば落ち着いた、悪く言えば薄暗い雰囲気を演出していた。
照明の下には、金属やガラス素材を用いた直線的なテーブルと椅子が並び、モノトーンを基調としたモダンデザインな空間を作り出している。そしてモダンな空間に響く喧騒と、充満するアルコールの臭い。その只中にロイドは居た。
ロイドは幼い頃から親に連れられて上流階級のパーティーに参加していたし、学生の頃はダーツバーやビリヤードバーで夜遊びをしていたので、こういう大人の社交場の空気には慣れていた。
しかし、慣れているかどうかと、楽しめるかどうかは別物だ。朝からロクな目に遭わず、心身ともに疲弊しきっていたので、社交場で気を遣うなどまっぴら御免で、早く帰ってベッドで眠りたかった。
何より今日はロイドの誕生日だ。誕生日なんだから、少しくらい自分の思い通りになっても良いじゃないか…と、子供のようなことを考えてしまう。
「皆さま、お食事にはご満足されましたか?これよりお待ちかね、毎年恒例の魔法局員当てクイズを開催しまーす‼出題はうちの局員だけじゃないので、ちょっと難しいですよ~!優勝者には景品もありますので、先ほどお配りした魔法の早押しボタンを押してジャンジャン回答してください‼」
「「「おー‼」」」
忘年会開始から30分程経った頃、幹事が司会進行を務め、余興が始まった。
「それではさっそく第1問!ヒントその1、丸いメガネを掛けている!」
「オーターさんか?」
「いや、丸メガネなら他にもいるだろ」
酔っ払い達があーでもこーでも言いながらザワザワ騒ぐ。
「ヒントその2、趣味は読書!」
「やっぱりオーターさんじゃないか?」
良い時間つぶしになるので、ヒントに当てはまる人物の顔を、ロイドも一人一人思い浮かべていく。幹事が上手く盛り上げつつ、そんな調子で30分程クイズが続いた。
「それではいよいよ最後の問題です‼ヒントその1、父親も魔法局に勤めている!」
「レヴィ・ローズクォーツくん!」
「早い‼けど残念、ハズレです!ヒントその2、イーストン魔法学校アドラ寮の卒業生!」
「まだ範囲広いな…」
「焦らすね~ヒント3早くしろ~」
「キャベル、お前じゃないか?」
「はは…そうかもしれませんね…」
隣席の同僚に肘でツンツン小突かれ、ロイドは怒りに脈打つ首筋を右手でグッと押さえる。
「ヒントその3、男性で血液型はB型…そしてなんと!今日がお誕生日です‼」
幹事がそう言って杖を一振りすると照明が消え、ロイドにスポットライトが当たる。
「え?」
「皆さん、もうお分かりですね⁉そう!うちの管理局の若手ホープ、ロイド・キャベルくんでーす‼」
「「「キャベルくん、お誕生日おめでとう!」」」
拍手する同僚達に囲まれ、何人かの先輩局員が魔法で紙吹雪を舞わせ、カラースモークで会場を彩っていく。幹事の目配せを合図に、同期が大きな花束とラッピングされた小さめの箱を持って来て、ロイドの直属の上司に花束を預けた。
――笑え……
上司がロイドに花束を渡そうと歩み寄り、祝いの言葉を口にする。ほろ酔いで火照っていた頭が、頬が、首が、上半身がスッと冷え、指先の温度を感じなくなっていく。
――笑え、ロイド・キャベル
同期の局員が、ラッピングされた箱をロイドに手渡す。息をしている筈なのに、ひどく息が苦しい。
――笑え……ここはサプライズに驚きつつ、職場の仲間達に笑顔で感謝と喜びを示すべき場面だ……笑え‼
同僚達が一際大きな拍手をロイドに贈る。べろべろに酔った同僚が、調子外れのバースデーソングを歌い出した。
ロイドの全身は冷え切っていた。右手にプレゼントを持ち、左手で花束を抱えながら、ひきつる頬を無理矢理持ち上げて必死で笑顔を張り付ける。時折頬の筋肉がピクピク動くので、上手に笑えている自信は無かったが、ロイドは今この場で自分に求められている反応を全力で演じた。
夜の街の喧騒から逃れ、ロイドは閑静な住宅街を歩いていた。自宅は別方向だが、使用人はもちろん、両親にすら会いたくなかった。今はただ一人になりたかった。
どうしてそう思うのか、自分でも理解出来ないまま、あまり馴染みない土地をあてもなく彷徨う。ふと気が付くと、芝生や花壇、そして遊歩道が整備された、自然豊かな公園が視界に入る。引き寄せられるように、ふらふらと公園へ足を運び、道の脇に設置されているベンチに腰をかけた。
ベンチの背もたれに背を預けて、寒さにかじかむ手をコートのポケットに入れ、夜空を見上げる。吐いた息が微かに白かった。
魔法界の気候は魔法で管理されており、年中穏やかで過ごしやすいが、四季は存在する。冬はそれなりに寒いので、人通りは少ない。犬の散歩をする者、ウォーキングに勤しむ者、そして仕事帰りの近隣住民が数分から十数分おきに、まばらに通りすぎていく。
ロイドは占い学で習った占星術を思い出しながら、星々の名前や星座の名前を頭の中で諳んずる。占い学には微塵も興味無かったが、成績の為に暗記した星座や星の巡りによる吉凶は今でも覚えていた。
魔力を籠めた水晶玉から、或いはカードや星から、不確かで曖昧な情報を得る授業はお遊びのようで、下らない時間だと思っていた。しかし、占いの結果に一喜一憂するアドラ寮の馬鹿な同級生達を見るのは然程嫌いではなかった。
――ドット・バレットの奴は今のところ教祖になってないし、レモン・アーヴィンは革命を起こしてないな……占い学の度にランスくんが錯乱して天井や壁にめり込んでたけど、結局彼の妹に彼氏は出来たかな?…良い子そうだったし、きっと出来てるだろうな…フフッ、いい気味だ……マッシュくん、水晶玉を使う授業は筋肉で解決できないからって、いつも困ってたな……あれは見てて面白かった…
学生時代のことを思い出し、口の端が微かに上がる。そんな自分が酷く滑稽に思えて、無性に腹が立った。
まるで、懐かしい思い出で悲しみを紛らわしているようで、そんな自分で自分を慰める惨めな真似など、ロイドには許せなかったし、自分らしくないと思った。そもそも、疲れることばかりで、ロクな1日ではなかったが、悲しむようなことなど無かった筈だった。
もし、地位や権力を失うようなことがあれば、きっと悲しくて不安になるだろう。しかし、今日あった出来事と言ったら、どうだろうか。所属している管理局で忘年会があった。それがたまたまロイドの誕生日と同じ日だった。同僚たちが忘年会の余興を盛り上げる為に、ロイドの誕生日をサプライズで祝う企画をした。彼らが期待する反応を返すことが出来れば、好感度が上がり、今後の業務がやり易くなった。だから上手に笑うべきだった。それだけ。
ただそれだけのことなのに、どうして上手に笑うことが出来なかったのか、どうして一人になりたくて寒空の下こんな場所に座っているのか、どうして学生時代の騒がしい日々を思い出したのか、自分自身のことなのに、ロイドには何も解らなかった。
もう疲れてへとへとで、体の芯から冷えるように寒くて、そろそろ帰らなければと思う。顎を引いて顔を傾け、カシミヤのマフラーに頬を寄せる。
「………」
何も考えたくなくて、息を大きく吐いて瞼を閉じる。視界を閉ざすと、幼い頃、家に客人を招いて、誕生日パーティーが行われたことを、ふと思い出した。
あの時、自分は何を想い、どんな表情でプレゼントや祝いの言葉を受け取っていただろうか。思い出そうとしても記憶が朧気で、来客の顔ぶれとその家格のこと、笑顔の両親に頭を撫でられて、ケーキの蝋燭を吹き消したことくらいしか思い出せなかった。
自分が何を想っていたかは思い出せなかったが、幼い頃の誕生日パーティーでも、ロイドの誕生日を心から祝っていた者など、両親以外誰も居なかったことは確かだと思った。だが、ロイドにとってはそれが当たり前だったし、それで構わない筈だった。
ロイドにとって絶対的に確かなものは、魔法の巧拙によって決まる地位と権力であり、その地位と権力に見合う働きを社会に還元することであり、そして働きに応じて得られる財力だった。それがロイドの世界を構成する全てだった。その世界はとてもシンプルで、分かり易くて、難しいことは何も考えなくて良かった。
いつの頃からだろう。シンプルなその世界に居ると、腹が満たされず喉が渇くような、心寂しい寒い部屋に一人で佇んでいるような、奇妙な感覚を自覚するようになったのは。
――もし僕が跡取り息子じゃなくても……もし…もし魔法が下手だったとしても……父さんと母さんは、僕の誕生日に笑って頭を撫でてくれたかな……
ポケットの中で無意識に手を握りしめていたらしく、左手がジクジクと火傷の痛みを訴える。血の気がなくなり、指先が痺れていることに今更気がついた。
ロイドが冷えた指先を温めようと、ラムスキンの手袋を脱いで、指先を軽くもみながら息を吹きかけていると、コツコツと靴音が聞こえてくる。また仕事帰りの近隣住民だろうと思いながら、数メートル前を通り過ぎる足を横目で視認して、視線を自分の手に戻す。しかし、通り過ぎた筈の靴音が止まり、一拍置いてからロイドに向かって近づいてきた。
カツアゲや物乞いの類かと警戒し、懐に忍ばせた杖を握り、顔を上げて靴音の主を確認する。
「ロイドくん⁉」
「………フィン」
そこにはアドラ寮の馬鹿な同級生の1人、フィン・エイムズが立っていた。
いかにも仕事帰りという風体で、食材の入った袋を手に提げている。学生の頃と比べれば若干大人びたようにも見えるが、そばかすの残る幼い顔立ちも、痩せぎすの体躯も、あの頃のままだった。
「わあっ久し振りだね!こっちに住んでるの?僕、てっきり貴族街に住んでると思ってたよ」
「いや…それは…」
「あれ?左手どうしたの⁉ 怪我?」
「別に…」
何が別になのか、何の誤魔化しにもなっていないと思ったが、上手く言葉が出てこない。今の自分は酷く情けない姿をしているような気がして、それをフィンに見られたくなくて、ロイドはバツが悪そうにそっぽを向いて左手を背中に隠した。
「えっ⁉ でもその包帯…」
「何でもないから…!」
語気を強め、放っておいてくれと言外に匂わせる。ロイドの意図を正しく読み取ったようで、フィンは一瞬たじろいだが、唇をきゅっと引き結んでロイドに向き直る。
「怪我…してるんだよね? …見せて?」
フィンに心配され、ロイドのプライドが傷つく。しつこいぞとフィンを突き飛ばして、この場を去るのは簡単だが、逃げるみたいでそれも情けない気がした。
しかし、拗ねた子供を相手にするような、困った表情で見つめられると、どうにも居心地が悪い。下手に誤魔化そうとしても、この時間が長引きそうだと判断し、ロイドは正直に白状する。
「……ただの火傷さ、大した怪我じゃないよ」
本当は今朝からずっと痛くて辛かったが、せめてもの強がりにそう嘯く。
「でも痛いよね? 僕、治すよ?」
「…………」
「あの…治しても良い?」
「………いいけど…どうせ治すなら左脚も治してくれ」
「左脚まで怪我してるの⁉ 何で⁉」
「そんなの僕が聞きたいよ…」
困惑とツッコミの表情をするフィンに、早く治せと左手を差し出し、わざと不機嫌そうな態度を取る。学生だった頃のような、幼稚な振る舞いをしている自覚はあったが、馬鹿な同級生に再会したせいか、どうにも調子が狂って大人らしい振る舞いが出来なかった。
「脚の火傷はここだから、ホラ、治すなら早くしろ」
「凄い上から目線‼ いいけど…」
フィンが杖をかざして魔力を籠めると、朝からロイドを苛み続けた痛みが、あっという間に引いていく。
「……助かったよ」
「え? どういたしまして?」
フィンが勝手に治すと申し出たのだから、体よく利用して上辺だけの礼を言い、さっさと追い返せば良かったのに、何故かそうする気にはなれなかった。そうかと言って素直に礼を言うことも出来ず、ロイドは何とも中途半端な態度を取ってしまう。しかしフィンは特に気にした様子もなく、ロイドの横に視線を向ける。
「あれ? その花束どうしたの?」
「ああ…これね……誕生日だから渡されたんだよ…」
「えっ、そうなの⁉」
つい馬鹿正直に答えてしまい後悔するが、手遅れだった。
「じゃあまだ間に合うね!ロイドくん、お誕生日おめでとう‼」
そう言ってフィンが屈託なく笑う。学生の頃から、アドラ寮の馬鹿な同級生達にこういう反応をされる度、腹から胸のあたりがむず痒くなってイヤだったので、言いたくなかった。ロイドは下唇を噛んで、フィンから目を逸らす。
「そうだ、プレゼント! あ…でも今あんまり手持ちが…」
「いいよ、そんなもの…君に施しを受けるほど僕は」
ぐ~~~っ
キョトンとした表情のフィンと目が合う。
「ふふっお腹空いてるの?」
「おい! 笑うな!」
「ごめんよ…だって…君のお腹が鳴ってるの初めて聞いたから…ふっ…く…」
忘年会の間は食欲が無く、付き合いに障り無い程度に酒を飲みつつ、軽くつまんだだけだったことを思い出す。
「そうだ、僕の家においでよ!ありあわせだけど、夜食作ろうとしてたんだ」
◇◆◇
そんな、突然の再会と思いがけない招待に戸惑って、断るタイミングを逃し、あれよあれよという間にフィンの家に連れて来られて、今に至ったことを思い出した。
フィンの家は、近年増えつつある開放的な間取りを採用した、2階建てのデタッチドハウスだった。一部屋一部屋が区切られた、伝統的な間取りの家に住むロイドには馴染みがなくて新鮮で、無作法だと自分を叱責しつつも、つい室内を見回してしまう。
フィンが一人で住むには豪華で広すぎると思ったが、シェアハウスなのか、或いは神覚者のお兄さんの家なのか、などとプライベートを詮索するのも憚られ、キッチンでちょこまか動くフィンを黙って眺める。ダイニングテーブルの隅をふと見るとDIYの雑誌が目に入り、そう言えばよくマッシュくんとフィンが寮のドアを直していたなと、また昔を懐かしんでしまい、慌ててフィンの背中に視線を戻した。
フィンは、火加減を弱めてからフライパンに溶き卵を流し込み、隣の鍋を数回かき混ぜてから、予熱済みのオーブンでパンを焼き始める。ドジで要領の悪い劣等生のフィン・エイムズとは思えない手際の良さが意外で、ロイドは目を見張った。どうやら料理は得意らしい。時折、ロイドの知らない牧歌的なメロディーを口ずさむ余裕まである。漂う香ばしい匂いに腹の虫が鳴り、顔をしかめて腹をギュッと押さえつけていると、カタンと玄関の方から物音がした。
数十秒の後、1人の男が顔を出す。フィンとは左右反対の、黄と黒のツートーンカラーの髪。フィンに似ているが、若干くすんで見える淡いミモザイエローの瞳。神覚者レイン・エイムズが、ネクタイを緩めながらダイニングに入って来た。
「あ、おかえり兄さま」
「ただいま」
ロイドは、ダイニングチェアに座ろうとするレインの方を向き、自分も挨拶をしようと居住まいを正す。すると、ロイドの存在に今頃気づいたのか、レインが一瞬驚いたような表情をし、眉間にしわを寄せてロイドを冷たく見下ろす。
「誰だ」
「同級生だったロイド・キャベルくんだよ! 今日お誕生日だって聞いて、プレゼント用意できないから、ご飯に誘ったんだ」
フィンがキッチンからパタパタ駆け寄ってきて、説明をする。
「……ロイド・キャベルです」
確か高等部1年の終わり頃にも似たようなやり取りをしたなと思いつつ、ロイドは改めて名乗ったが、レインは顔をしかめて返事もせず、ダイニングチェアに腰を掛けた。
「アドラ寮で兄さまも会ったことあるのに…」
「………」
「………」
3人の間に気まずい沈黙が流れる。
「ごめん、兄さまは…」
「すごい人見知りなんだろ? 前に聞いたし、これはもう人見知りとかそういう問題じゃないと思うけど? あと、僕は別に気にしてないから」
フィンがコソコソと耳打ちをし、ロイドは恨みがましい目を向けながら小声で返す。レインはロイドから顔を背けて、足下に寄って来た1羽のウサギをそっと抱き上げ、膝に乗せて背中を撫でていた。
「本当にごめん…もうすぐご飯できるから…」
兄の態度をこれ以上擁護するのは無理だと諦めたのか、そう言い残してフィンはキッチンへ戻っていった。
――確かに学生の頃はほとんど接点無かったけど…年度末の大掃除や卒業パーティーでちょっとは面識あるし、魔法局の廊下ですれ違うことだってあるのに……別に全然気にしてないけどさ……
「お待たせ!」
こんがり焼けたパンからは、甘く香ばしい匂いが漂い、ロイドの食欲をそそる。ほかほかのトマトと豆のスープは、ほのかなタマネギの香りで鼻をくすぐり、赤と緑の彩りで目を楽しませる。そしてもう1品、見たこともない料理の皿がコトリとテーブルに並べられる。
「なにこれ?」
「えっ?」
レインが射殺しそうな目つきでロイドを睨む。
「おい…文句あるなら食うんじゃねぇ」
「ヒッ」
「違うよ兄さま‼ ロイドくんの家はお金持ちだから、もやしを食べたことないだけなんだよ‼たぶん! ねっ⁉」
フィンが慌ててフォローを入れ、ロイドは必死に首を何度も縦に振った。
フィンが言った通り、ロイドは決してフィンの料理に文句があった訳ではない。本当に見たことが無くて、思ったままの疑問を口にしただけだった。
「今のは早とちりして怒った兄さまが悪いよ! ちゃんと謝って!」
眉間にシワを寄せたレイン・エイムズと目が合う。レインは何か言いたげにロイドをじっと睨み、フィンの方をチラリと見て、結局何も言わずにそっぽを向いてしまった。
「もう! 兄さまのわからずや!」
魔法界の頂点に君臨する神覚者。神に選ばれし者。その一人であるレイン・エイムズが、まるで聞き分けのない子供のように叱られている。しかも弟に。にわかに信じがたい光景に、ロイドは呆気に取られる。
「あの…ごめんね…」
「いや…いいよ、僕も言い方が悪かったし…これは何ていう料理だい?」
「もやしの玉子とじだよ! 豚もやしポン酢と迷ったけど、玉子とじの方が食べやすいと思って」
そう言いながらフィンが席につき、軽く指を組んで食事前の祈りを口にする。
「神様、あなたの慈悲のおかげで、僕は今日も家族や友人とご飯を食べれます…ありがとうございます」
フィンの祈りに合わせて、レインも軽く指を組んで黙祷してから食事を始める。宗教色の強いこの国では、こうして食前に神に祈ることは珍しくないが、形骸化している側面もあり、無事に食事にありつけることを心から感謝している様子がロイドには新鮮だった。
「さあ、冷めないうちに食べて!」
フィンに促され、ロイドは慌てて指を組んで瞼を閉じ、黙祷する。そしてゆっくりと瞼を開け、未知の料理〈もやしの玉子とじ〉を口に運ぶ。
「美味しい…」
「良かった!」
フィンが安心したように笑う。一口食べてからは、もう手が止まらなかった。スープもパンも本当に美味しくて、テーブルマナーは守りつつも、夢中になって次々と口に運んでしまう。ロイドの皿がほとんど空になった頃、フィンが思い出したように疑問を口にした。
「そう言えばどうして1人で公園にいたの?」
「忘年会だったんだよ、魔法局の…それで…ちょっと酔ったから…風に当たりたくて」
どうして一人になりたかったのか、ロイド自身も解っていないので、無難な理由をでっち上げる。
「じゃあ、あの豪華な花束、職場の人達のプレゼントなんだね」
「ああ、迷惑なことにね」
「え?」
「僕はこんなけばけばしい派手な赤い花なんか好みじゃないんだよ」
フィンは驚いた表情をして、少し考え込んだ後、慎重に言葉を選んで問いかける。
「確かに…もらってもちょっと困るなあってプレゼントもあるけど…でも、お祝いの気持ちは嬉しくない?」
ロイドは顎を軽く上げて、フンッと鼻で笑う。
「分かってないね、そもそもあいつらは僕の誕生日を祝う気なんか無くて、ただ忘年会を盛り上げる催し物として利用しただけさ」
そう言葉にした途端、どうして自分が上手に笑えなかったのか、どうして一人になりたかったのか、腑に落ちた気がした。認めたくはなかったが。
「そういう人もいるかもしれないけど…ロイドくんのこと、心からお祝いしてる人だっていると思うけどなあ」
フィンの言うように、心からロイドを祝った同僚も、中にはいたのかもしれない。しかし、自分に対してそんな好意的な同僚がいるかもしれないなんて、ロイドには信じることが出来なかった。
そんな風に、他人の好意や善意をにわかには信じがたいという感覚を、素直で単純でお人好しなフィンに理解できるとは思えず、ロイドは口を尖らせて顔を背ける。すると、何か言いたげにじっとロイドを見つめるレインと目が合った…と思ったら、レインはおもむろにティーポットを手に取り、ロイドのティーカップにハーブティーを注いで、またそっぽを向いて食事を再開した。
「兄さま?」
「……ありがとうございます」
「ロイドくん? え、何いまのヤリトリ?どゆこと?」
あんなにロイドに冷たかったレインが、突然態度を軟化させたので、フィンは困惑していたが、ロイドはレインの意図を汲み取ることが出来た。
自分と同じ気持ちだったかまでは分からないが、きっとレイン・エイムズも、嬉しくないサプライズを職場でされたことがあるのだろう…と。そう思うと、戦の神杖の名を冠する、神に選ばれた特別な男が、少しだけ身近な存在に感じられた。
ロイドとレインは、何も言わず、互いに顔を背け合いながらハーブティーを一口すすった。
食事を終えると、フィンが紅茶を淹れながら「最近マッシュくんはどうしている」だとか「ハーブティーも紅茶もドットくんがくれた」だとか、そんな他愛もない話をし始める。フィンのお喋りを話半分に聞きながら、ロイドが紅茶を飲んでくつろいでいると、1羽のウサギが寄って来て、フィンに抱き上げられる。冬毛がもふもふで温かそうだった。
「撫でてみる?」
触ってみたいと思ったのが顔に出ていたらしい。わざわざ断るのも何だか面倒で、素直に、そっと手を伸ばす。
「痛っ!」
「あ、ウサオ! ダメだよ!」
ウサギを撫でようとしたら手を咬まれてしまい、またフィンに魔法で治される。
「ごめんね、ウサオは甘えん坊さんだから撫でさせてくれると思ったんだけど……この子達、餌に夢中になると兄さまのことも咬むから…その…落ち込まないで…」
「この僕が動物に嫌われたくらいで落ち込む訳ないだろ!まあ…僕は撫でようとしただけで、何もしてないけどね! 理不尽だなんて全然思ってないさ!」
「……」
「……」
ロイドとフィンは顔を見合わせて苦笑する。流石に自分でも苦しい言い訳だと思った。
この馬鹿な同級生に再会してから僅か数時間、惨めで情けなくて幼稚なところばかりを見られて、自分の方が余程馬鹿な気がする。それが何だかおかしくて、同時に鼻の奥がツンとして、誤魔化すようにロイドは笑った。
笑いがおさまってからは、今日作らなかった〈豚もやしポン酢〉がいったいどんな料理なのか聞いてみたり、卒業した後お互い何をしていたのか少しずつ話していると、日付も変わろうという時間になっていた。
「そろそろお暇するよ…」
「わ、もうこんな時間だ!」
ロイドはコートを羽織り、マフラーを巻いてエイムズ家を後にする。はらりはらりと、まばらに雪が舞っていた。
「雪だ…積もるかなあ?」
そう言いながら、フィンが玄関先まで見送りに出て来た。
「…なぁフィン」
エイムズ家の玄関に背を向けたまま、ロイドはポツリと呟く。
「?」
「ごはん、美味しかったよ……ありがとう」
「もし良かったら、また食べにおいでよ!」
「君が作った庶民向けの料理なんか……年に1回食べれば充分だよ…」
肩越しにエイムズ家の玄関先を見る。一瞬ポカンと首を傾げた後、口元をほころばせるフィンが見えた。
「じゃあ来年の12月15日は、もうちょっと良いもの作るね」
「いいよ、君が食べたいものを作れば…それで充分さ」
そう言い捨て、ロイドは夜更けの住宅街をゆっくりと歩き出す。寒さにかじかむ手をコートのポケットに入れ、夜空を見上げる。吐いた息が微かに白かった。
――こんな夜の次の日、雪が積もって、マッシュくん達が雪玉を投げて馬鹿みたいに騒いでたな…日曜の朝だったのに、うるさくて…あれは迷惑だった…
学生時代のことを思い出し、口の端が微かに上がる。そんな自分が酷く滑稽に思えて、少しだけ泣きたくなった。
「ロイドくん! またね‼」
フィンの声に足を止める。雪が降っているというのに、まだ見送っていたのかと驚いて振り返ると、呑気な顔でブンブン手を振っていた。
「まったく! フィンのせいで最悪の誕生日だったよ‼」
困ったように笑うフィンに背を向け、ロイドはもう痛くない左手を軽く振った。
おわり
あとがきなど
「マフラー」や「手袋」と書けば充分なのに、わざわざ「カシミヤのマフラー」や「ラムスキンの手袋」と書いているのが個人的なこだわりポイントです。